時をかける少女の補足と批判

本当はらき☆すたグレンラガンについて書こうと思っていたが、21日以降いくつかのブログその他を巡っていると、「時をかける少女」否定派の意見がおかしいと思ったので前回の日記に補足する意味でも多少述べておこうと思う。いや、誤解がないようにしていただきたいが、あのanimationを否定することが悪いのではない。自分自身「時かけ」があまりに面白かったのでなんとか否定しようと試みてたが、既に失敗しているのである。むしろ、否定派の人たちに対して、「その言説では否定できないよ*1」という既に自分の陥った失敗にはまらないようにしてもらう趣旨である*2。まずは下記リンクを参照されたい。
第10回文化庁メディア芸術祭 アニメーション部門受賞者シンポジウム レポート (シャア専用ニュース様)
ここに掲げられた御大の言葉は、時かけを批判してるという意味で評価できるものなのだが、それを持ち上げている人間の言葉をみていると、どうも富野監督のいいたいことを理解していない気がしてならない。どうしてそうなってしまうのか不思議でならないが、それは置いておいて、ここでは御大がなにを述べているかということに触れることが肝要だと思うのでそれについて言及する。
一言で言ってしまえば、富野監督が述べているのは、「映画を作るときには社会的影響力を意識しろ」ということだ。前回の日記で書いたとおり、時をかける少女タイムリープを通して少し大人になっていくということを描いた作品である。3人ずっとキャッチボールをできる関係でいたいという願い*3、そしてそれがずっと続くと思っていた紺野真琴。だが、一人は下級生と付き合い始めたり、もう一人は自分に告白してきたりあるいは自分の親友と付き合うことになったりして、実は3人が同じ関係のままではいられないことを知る。そして、自分も千昭が好きだということに気付くことで、3人の関係の変化を受け入れていく、という物語である。女1人に対して男2人という三角関係がリアリティを感じさせないという言い方をよく見かけるが、リアリティとは男女の組み合わせの話に見出すものではなく、少女が成長するという物語の部分に見出すべきものだろう。主人公の成長を、このanimationをみている我々が「人間の成長」と普遍的に捉えるところに現実感を感じるのが"作品"なのだから。その"手段"として、例えばタイムリープというものがでてきたり、男2人女1人という組み合わせが物語り制作の都合上設定として用いられている、ということに過ぎない。だから、その点を持ってリアリティ云々いうのは間違いであるし、そのリアリティの欠如ということを上記の富野監督の言葉つなげるのはさらにおかしい*4
そうではなくて、あそこで御大が言っているのは、この作品で描かれている少女の成長を、「ずっと友達同士のままでいたい」から「ずっと友達同士だと思っていたやつを好きになった、という気持ちを真琴自身が受け止める」という風な変化だけで描いていることに安易さを感じる、ということである。好きだという気持ちを受け止める、付き合いたいという気持ちを受け止める。では、その先は?現代風にリメイクした「時をかける少女」は、演出的に現代高校生たちの言葉を表現できているが、それをそのまま描いただけでは現代高校生たちの"声"を肯定したにすぎず、彼らが実際にこの作品を見たときに「大人たちがこういう風に描いてくれているからいいんだ」と思ってしまうかもしれない・・・といったところが危うさを孕んでいると批判しているのである。それを、"懐かしさを覚える高校の描写や、魔女おばさんに「真琴くらいの年にはタイムリープはよくあること」と言わせたりするといった、観客をvividに引き込む見事な演出が随所でなされていることが、却って後押ししてしまっているのである。
そして、脚本が女性であることをもって*5、実は奥寺佐渡子さんは上で言ったような好き・付き合いたいの先を、「SEXしたい!」と思っているのではないか。時をかける少女にはそういう言葉が隠されているのではないか、ということで「風俗映画」と評しているのである。けだし、これらを踏まえて、細田守にそういう問いにどう答えるのかをきちんと映画の中で示せと、もっと深く考えろと説教しているというわけだ*6。彼のいっている「社会性」とはそういうことである。
率直に言えば、この富野御大の批判が必ずしも正しいかどうかははなはだ微妙だ。しかし、そのようにあのanimationを批判できるとこに富野由悠季の偉大さの片鱗がうかがえるし、そしてそういえなくもないところに彼の恐ろしさがある。
ところで、富野由悠季が俎上に載せもしない作品は彼にとって論外であるらしい。彼が、自分が気に入った作品にだめだしするのは有名な話である。個人的には、文中富野由悠季が「涼宮ハルヒの憂鬱」をよくわからないと評している点も見過ごせない。もっとも、言葉が少ないので彼の真意(であろうこと)について述べても、それはただの想像の域を脱し得ないからここでは指摘に留めておく。
また、「時をかける少女」を観ると"鬱"になるという意見もあるが*7、だからといってそれが「癒しアニメ」を肯定する理由にはならないと思われる。御大の言葉を借りれば、「嫌でも社会と関与するという部分がある」以上、逃避の先としての閉じられた世界=「癒しアニメ」は否定されざるを得ないからである。というか、そもそも"鬱"になるかどうかで「時かけ」の肯否をいうのはただの感情論でしかないか。感情的なレベルの肯否は誰にとっても不可侵性があるから、言ってみても意味がない(人の説得には役立たない)。

*1:えてしてミスリーディングな場合も多いのでそこを正したい意味も強いが・・・

*2:われながら批判の完成を他力本願とはなんともお寒い状況だ

*3:一応書くが、この3人の関係は恋愛関係未満なので、いわゆる三角関係ではない。友達関係であるからこそ成り立つ主人公の葛藤である

*4:繰り返しになるが、このような誤読を数箇所で見かけたことに少々驚いた。そう読み取ってしまう原因が何にあるのか気になるところ

*5:ここには富野由悠季の男性観・女性観が大きく反映していることに注意は必要かもしれない

*6:大人である細田守がみたティーンエイジャーの言葉をきちんと劇中に描けていることは認めつつ、では逆に大人としての彼の言葉はどこに行ったのかという問題意識である

*7:鬱という言葉を用いなくとも、これに類する言葉でこの趣旨のことを述べている言説もあった。ここでは、そのような内容に言及しているサイトで使われていたこの表現がもっともわかりやすいかと思ったことから、"鬱"という言葉でまとめて述べることとする

時をかける少女

何度観ても幸せな気分にしてくれるanimationだ。昨年制作されたものの中では随一の、そして諸手を挙げて面白いといえる作品であろう。この「時をかける少女」は、タイムリープという体験を通して少しだけ大人になっていく主人公・紺野真琴の姿を描いた作品である。いくら3人ずっと同じ関係でいたいと願っても、それがタイムリープなどという究極の反則技を持ち出したとしても、変化せずにはいられない関係を受け入れていく主人公の物語である。感情的にはともかく、本作品を順を追って考えていくと、他の解釈はなかなか成り立たないと思われるがいかがであろう。
さて、そのような前提に立つと、作中の「タイムリープ」に関してSF考証云々言っているのは全く的外れであることになる*1。いってみれば、主人公の成長を描くために"たまたま"タイムリープという題材を選んだだけであって、それがSF的な正しさを有しているかはあまり関係がない。ところが、そこここの批評を覗いてみると、上記のような作品の前提をしっかり捉えずに、専らミクロの視点からばかり作品を論じているものが多く見受けられる*2。時間の流れ、因果の流れが話に絡んでくるからといって、直ちにSF考証等に乗り出すのは早計に過ぎよう。もっとも、確かに設定はSF"チック"なところがあるので考証する必要はあるし、したくなる気持ちも分からないでもない。ただ、それは登場人物たちの関係性がこの物語の中核であるという大枠をきちんと捉えた上の議論でなければ失当となってしまうのである。
他方、本作は演出の面からみても素晴らしい。長い坂道、三叉路、標識を用いた比喩が、各場面できちんと効果的に働いている様は、細田守の定番"演出*3"として非常に安心して観ることが出来た。魚眼レンズ*4で引き気味に映し出すといったカメラワークも、とかくアップでごまかすことの多い近年のanimationとは異って出来の良いものだったと思う。しかも、その視点がカメラの三脚くらいの高さを意識していることによって、実写的な感覚でみることができる。つまり、あおり気味で映すことによって画面上の人物が映える。
また、郷愁というのならこの作品にこそ、その言葉はふさわしい。学校の各所を描かれているシーンがあったが、高校時代を想起させるような懐かしさ(郷愁といっても、かつて高校生だった人にのみ訴えかけているのではなく、高校生活を知らない者にとっても"高校生活のデジャヴュ"を与えるようになっている)をきちんと観る者に伝えてくれる。なぜ同じ黒板の落書きひとつでこうも違うのか不思議でならない*5
細田守の特徴のである影のつけない人物絵は、いわゆる「傷つかない身体」である。作中、真琴はブレーキの壊れた自転車に乗っている友人たちを救おうとして大怪我を負う。だが、その瞬間時間が戻ることによって"傷つかない体の傷が治る"という描写がなされている。普段傷つくことのない身体が、ある瞬間傷を追うものの(そしてそれはこの瞬間だけである)、しかしタイムリープによって「お前の体は傷つかないんだよ」といわんばかりに巻き戻される演出は興味深い。思わず「あれっ?」と思ってしまう、魅せる演出であろう。
このように演出面で観るものを引き込もうと強く努力していることは、逆説的ではあるがanimationが結局セルの上に人物を描いたにすぎないことを強く意識させる。だがそれは決して悪いことではない。なぜなら、フィクションが所詮フィクションであると自ら告白することは(紺野真琴と異なってフィクションでない世界で生きる)我々を最後には現実へと戻してくれるからである。
厳密な計算の許、筒井康隆の考えた設定をうまく用い、ストーリーと演出とが相互に補完し合いながら物語を形成していることで、奇を衒った方法に頼らずとも隙のないanimationに仕上がっている。良いanimationとはこういうものをいうのだと、感嘆するばかりである。


ところで、いまの幸せな気分を壊したくないため、今夜は絶望先生を観るのはやめておくことにする。

*1:少なくとも作品解釈上は無意味である

*2:これはSF考証に限らないし、他の作品に対しても、全体を貫く前提を無視して個別的な点を論じようとする試みがまかり通っている現状が一般的にはあるように思われる

*3:演出というのはそういうことである

*4:そういえば最近のanimationでな偽魚眼をみかけることがありますね

*5:本当に誰か某監督を何とかしていただきたいのだが。黒板にネタを書いて喜んでるなんて、それこそ子供が「これって面白くねえ?!」と自画自賛しているレベルとかわらない(ちなみに「ぱにぽに」、「ネギま!」、「絶望先生」と3作も同じことをやるなんてまさに進歩していない証拠ではなかろうか。無論それを賞賛する側も同様である)。もしかすると、ご本人はそのあたりをきちんと理解しているが、単にそれをすれば喜んでくれる水準の人間にレベルをあわせているということも・・・というのは善意解釈にすぎるのでそうでないとみるほうが妥当か

ゲドと糸色望と。

1.久米田康治先生原作のさよなら絶望先生第1話を観て絶望した。実は新房昭之という人にはそこそこ付き合ってきた経緯があったのだが*1、いい加減、黒板に文字を書いて喜ぶような矮小な監督観から脱却していただきたいものだ。少なくとも、そこに気を回す前にもっと本編(の演出)をしっかりと作ってくれないと。だが、おそらく絶望先生のanimationに対しては、「面白い」と評価する人々が大勢を占めるのではないかと思われる。冒頭いきなり、アップででてきた変な形のさくらの花びら*2に代表されるようにいくつか指摘すべき点があったのにもかかわらず、そういうことには目を向けずによくあの細かい黒板の字を読む気になるものだ、と愚痴をこぼしておく*3。「久米田先生おめでとう」とはしゃいでいた気分を見事に裏切られたいまとなっては*4、ただただ、今後の久米田作品が業界への配慮から変に遠慮がちになってしまうことを危ぶむのみである。

2.ゲド戦記を観た。この作品については、これまでいろいろ批判してきたらき☆すたとか、上記のさよなら絶望先生とか、そういった作品以上にお話にならない。原作者のグウィンが怒るのは当然だ*5。問題外過ぎるので、おそらくこれからこのサイト内で俎上にのせることすらないであろう。ただ、前年興行収入トップでありながら内容の肯定評価をを聞かなかったという、「売れるもの≠面白いもの」の顕著な図式が世論にも現れていることが問題意識として重要であることを再認識した。もしこれでDVDが売り上げを伸ばすようであれば、それこそ今後は内容を語る際には、商業的成功とは全く切り離して語らなければならないであろう。そういえば角川もそんな感じですね*6

3.今週の天元突破グレンラガン第15話「私は明日へ向かいます」が放送される前に書こう書こうと思っていたのだが間に合わなかった。そういうわけで、天元突破グレンラガン第14話「皆さん、ごきげんよう」について一言。この回で往年のロボットアニメのパロディがいくつもでてきた。ヤマト、イデオンザンボット3ザブングルマクロス(かな?)・・・*7。もっとあるやもしれないし、あったとしても不思議ではない。らき☆すたハヤテのごとく!を観ていて、天元突破グレンラガンも観ている人々で、前者のパロディを指摘している人のうち、どれくらいの割合の人が後者のパロディをも指摘したのか*8、興味を覚えるところではある。

*1:意識して付き合ってきたわけではなく、ふとみたanimationに彼の名があったというパターンが多い

*2:個人的にはアレがかにチップにみえて仕方なかった

*3:最も、いくら業界として根付いているとはいえ、animationの観方を教えてもらったことのない視聴者の側では、わかりやすいああいった表現に目がいってしまうこともわからないではない。でも、animationが好きだと自称するのなら、それくらい少しは勉強するはずなのだが・・・。おっと、あまり愚痴をこぼすとサイトの趣旨に反することとなる

*4:むろんこれは久米田康治先生のせいではない

*5:ちょっと調べてみたところ、原作者グウィンが指摘しているこのanimationのダメな点は実に正当であった

*6:涼宮ハルヒの憂鬱という作品については、animationの方はまったく希望をもっていないが、原作の方には望みがあると思っている。おそらく、完結する最後の瞬間まで見捨てはしないと思う(つまり、結末次第である)

*7:富野作品は多いのはさすが富野監督といわざるをえない

*8:ネット上でも、人との会話の中でもなんでも形態はまったく問わないとして

らき☆すた第12話「お祭りへいこう」

らき☆すた第12話「お祭りへいこう」について。
少々感情的な物言いになるが、らき☆すたを掛け値なしに面白いといえる人は思考停止しているのではないか。

新世紀エヴァンゲリオンにおいて庵野秀明が提示した「気持ち悪い」というメッセージを、一方で"エヴァ的"なものとして受け入れながら、他方においてそれが示したメッセージに背馳してきたのがこの10年間であったといえよう*1。ところで、これまでに述べてきたように、このサイトの趣旨は、「animationに対して感情的・感覚的な側面からのみ評価している現況に注意を喚起し、animationというものを"まずは"理性的な部分から捉えなおすべきだとの主張」である*2。したがって、上記の趣旨からすればエヴァンゲリオン庵野秀明が発したメッセージの肯否を議論するのが主たる目的ではなく、そもそも、そのanimationがどういう意図を有しているか*3ということを正しく読み解くことを目指しているのである。

らき☆すたが"女子高生の日常"を描いたものであるという言い方をするのは虚偽である。なぜなら"オタクでない女子高生"が日常的にネトゲとかギャルゲーなどと話すということはないからである。
これに対しては次のような反論があるかもしれない。いわく、らき☆すたは"オタクな女子高生の日常"を描いた作品なのだ、と。だが、このような言い方をするのも適当でない。
らき☆すたという作品は確かにオタクに観られることを前提としている。それは作品内に数多あるパロディや前提知識を必要とする内容の存在からわかることである。しかし、ともすればそのことはオタク以外の視聴者を蚊帳の外においてしまう結果を導く。いやしくも、らき☆すたという作品は(深夜とはいえ)テレビというメディア媒体で放送されているのであるから、その点をおろそかにせず考慮に入れねばならない。つまり、「らき☆すたを観ようかな。どうしようかな」と思案している、らき☆すた愛好者の"周辺部にいる人々"に対して、いかに作品が語りかけていけるかという問題である。オタクの存在だけを前提するオタクだけわかるという作品であれば、テレビなどという開かれたメディアではなく、ある程度隔離のなされているOVAあたりで勝手にやってくださいといえてしまうからである。
ところで、どうもanimation(だけではないのだが)を語るときに、メディアの違いというものを考慮事項からはずすという空気が蔓延しているように思える。らき☆すたも原作つきの作品であるが、例えばコマとコマの間に断絶のあるメディアである漫画と、音(声)・動画(しかも実写と異なり"絵"である)のあるanimationというものは、表現方法の時点で自ずから差異があるのであり、その点を全く峻別して作品内容を評価することは不可能であろう。一般的な空気の話として、原作通りであることに価値を見出すところも見受けられるし、漫画がanimationへとメディアをかえて作られた場合にメディア自体のもつ特性を"なぜか"考えずにすんでしまうという思考方法には飛躍がある*4。少々話がずれたが、らき☆すたという作品に"オタクな女子高生の日常"という評価を与えることは間違いである。
さらに別の理由からこの理由を補足しておこう。らき☆すたのオープニング曲「もってけ!セーラー服」がオリコンに入る入らない、そして1位をとるとらないといって話題になったことは記憶に新しい。しかし、この作品が"オタクな女子高生の日常"を描いており、そして視聴者の側もこの点を受け入れて楽しんでいるというのであれば、オリコンチャートというオタクだけに開かれたわけではない場所で評価されていることを取り上げて騒ぐのは筋違いというものではなかろうか。"オタクがにんまり笑える内容を描いている作品"なのであろうから、そもそもオタク以外は立ち入り禁止の作品であって、仮にそれがオタク以外の領域で評価されうるとしても、それに対しては無言・傍観を決め込むのが視聴者として採るべき誠実な態度といえるのではないだろうか*5。そうでなければ自らの下した評価に自らが違背することになってしまうだろう。そして、もし自らの言に違背してしまうのであれば、それは自らの設定した前提がおかしいのであるといえ、すなわちanimationを"オタクな女子高生の日常"と評価したことの嘘がばれてしまったということにはならないか。
今回はコミックマーケットの話が出てきた。これは上述した内容を象徴的に示すものであろう。どうやら今回の内容はらき☆すたを好んで視聴する人々に特に支持されているようである。
さて、今回は存外に長文となってしまった結果、冒頭に示した「らき☆すたを掛け値なしに面白いといえる人は思考停止している」の内容について言及し損ねてしまった*6。これについては次回にでも述べようと思う。

*1:ここで庵野監督の所信表明をリンクしておこう。参照されたい。ttp://eva.yahoo.co.jp/gekijou/big_message.html

*2:後述するが、この趣旨はとりわけオタクと呼ばれる方々に向けたものであることも併記しておく

*3:物語のメッセージ性の話とは違う

*4:もしかしたら、メディアについて考慮せずに作品を評価できる人たちはものすごく頭の回転がよい人ばかりなので、あえて簡単な思考過程を語らずに済んでいるのかもしれない。だが、わたくしのような頭の悪い人間に対してはいちいち思考過程を示していただかないと、"なぜ考慮しなくてもよいのか"あるいは"なぜ考慮しても結果に影響を及ぼさないのか"が全く不明である

*5:一方で「おれたちはオタクだけが楽しめる世界を好むんだ!」といって作品を正当化しておきつつ、他方では翻って「おれたちのオタク性がオタクじゃない領域に食い込んだぞ!うれしいな!!」というのは単なる二枚舌ではないだろうか

*6:だが、今回の日記の内容とも関連することである。具体的に示せば、「らき☆すた愛好者の"周辺部にいる人々」に対する姿勢の話と関係する

天元突破グレンラガン第11話「シモン,手をどけて」

天元突破グレンラガン第11話「シモン、手をどけて」がネット上で話題になっているようなのでほんの少しだけ言及してみよう*1
http://d.hatena.ne.jp/Triple3/20070610/1181467366#tb様で述べられている庵野作品との対比にしたがって述べてみると,グレンラガンが記号的表現に終始しているのに対し,庵野作品はanimationに内在するリアリティと記号的表現との緊張関係をいかに受け止めるかという違いがある。具体的な作品名で表せば,天元突破グレンラガンGAINAX作品の中でフリクリに近しい部類に属す。庵野作品は当然新世紀エヴァンゲリオンを想起せられたい。
以前述べたとおり,この作品は記号絵を用いている。それは抽象化された身体にとどまらず,内容までもが"記号的"なところに懲表されている。記号絵を用いるということは,放送時間帯への考慮や視聴者の対象年齢もあるかとは思うが,純粋に作品に対する意味から考察するに,記号絵というものがいわば「これは人の体なんですよ」と視聴者に約束事を提示していることを前提としているのである*2。そして,その約束事は,一定の範囲で内容をも拘束し*3,結果として今回のようないわゆる「王道」すなわち"お約束*4"となったといえよう。

*1:とはいってもネットを用いて多少調べた範囲ではある。そして,天元突破グレンラガンが話題になっているかどうかを語るときに最も問題とすべき対象は,いわずもがな子供たちである

*2:そして視聴者がそれを観る以上,そのことを受け入れているということになる

*3:以前述べたような「傷つかない人体」のような話が関連するためである

*4:追加的に説明しておくと,この"お約束"は今回のシモン復活劇のような"全面肯定"は必然ではないが,それを認める方向へ力を働かせるものであることは間違いないであろう

らき☆すた 第09話「そんな感覚」

らき☆すたを語る多くの人々の感覚に、やっとたどり着いたのかもしれない。らき☆すた第9話「そんな感覚」の冒頭、「読書の秋ってことで〜」の箇所で気がついた*1。要するに、この作品内で提供される話題は小学生あたりが日々の生活の中で述べる与太話の水準なのだ。「息抜きにゲームで気晴らし」の話でも、勉強しろと大人に注意された小学生が「じゃあ自分は子供のころ勉強してたの?!」と言う場合と大差ない。「苦手なところが続くとずっと眠くなるよ〜」という話も、小学生が勉強をするときに言うような弁解である*2。この調子で全点を挙げていくことは*3控えるが、ストーリーを進めていく上でその程度の(低い)レベルの話しか提供されておらず、しかもそれが昇華していないという状態が終始続いてゆく。よく目にする「何も考えないで楽しめる」という感想はきっとここに起因するのであろう。つまり「何も考えないで」とは、らき☆すたという作品を楽しんでいる人々は観賞の最中(意識的にか無意識的にかは知らないが)その水準にまで思考レベルをおとしているということに違いなかろう。とはいっても、提供される話題自体の程度が低くあっても、作り込まれたキャラクターの存在があれば、(作り込まれたキャラクターというのはそのキャラクター自身の目線での行動をとるということであるので)話題が"そのキャラクターの手によって"昇華され、十二分にストーリーを形成することができよう*4。本作品ではその試みすら放棄してしまっているから救済の余地がないのである。
ところで、実際に"オチ"ているかはともかく、"オチ"の段階で柊かがみが言うセリフが長い。特に、今回の「そんな感覚」ではそこを意識させられた。これはなにかというと、上述した点と関連するのだが、昇華せられなかった水準の低い話題を、そのまま"オチ"といわれる話の終着点に据え置いたのではおさまりが悪くなってしまうがために、(もともと話を展開するという試みに敗北しているにもかかわらず)長い説明を介入することによってあたかも話が展開したかのように糊塗せんがためのものである。
結局らき☆すたは、「そんな感覚」で作られたanimationにすぎないことを独白し続ける作品でしかない。

*1:もっとはやく気づけといわれるかもしれないが、以前の日記で書いた「いらない話題」を、いま少し詳細に説明しようと試みているのが今回の日記である。念のため繰り返しておくが、「いらない話題」とは"認識のズレ"のない話題のことをいうと以前述べた。これは"話題それ自体"と"その話題を発展させること"で成立する話題というものが、両者のいずれも水準が低いことによって起こるわけである。依然述べたのはそういう意味であったのだが、今回の日記はそのうちの前者について特に言及した話である

*2:しかもその後に「最初からあんまりとばさないで云々」と続く

*3:数が多いので、というより残念なことに全編にわたって該当してしまったので

*4:具体例として適切なのがどうしてもあずまんが大王ばかりになってしまうのが多少心苦しいが致し方ない。それはともかく、例えば大阪の「 大豆は枝豆やねんでー」のエピソードでは、"豆知識"を知っている大阪と知らない他のメンバーの「認識のズレ」があることにより話として成立している

天元突破グレンラガンについてわずかばかりの一般的考察

(前回の日記の補足:文中で「あずまんが大王」といっている箇所は、直接には同タイトルのanimationを指しております)

animationという意味において、今クール放送されているもののうちで天元突破グレンラガンを超えているものはないのではないか*1。もちろんこれは相対評価であり、グレンラガン自体に多少の疑問点がないわけではない。
この疑問点について、正直に告白すると、第1話の時点ではほとんど気付くことが出来なかったし、言語化することができたのはごく最近だったりする。また、現時点ではあくまで疑問に留めておきたいのであって、明確に批判という形で述べることは差し控えたいと思う。その点ご留意いただきたい。
まず、"違和感*2"を覚えたのは、第1話であった。そこでは地震の描写があったが、生涯生存の場所を地下に強いられることが当たり前の人間にとって、地震というのは死に直結する重大事のはずである。にもかかわらず表情*3に死に対する恐怖が滲んでいなかった。いや、滲んでいなかったわけではないが"直近の死に怯える"というには足りていなかった。第1話だけでも数点そういう場面があったし、回を追うにつれてそういった指摘を受けうる場面が減ったわけでもなかった。ただ、この違和感の時点*4ではいまだ個々人の嗜好の域を脱してはいなかったともいえる。さて、要するに"芝居がかっている*5"わけである。地下の住人たちに死への恐怖があまり感じられないのも、村長が異端者の存在を絶対に許さないように怒ってみえないのも、カミナが自分の生き方を貫こうと周囲に反発しているところに憤りが見えないのも、芝居がかってみえるからだ。では、なぜそうみえてしまうのだろうか。答えは簡単で、つまりグレンラガンの絵は記号的だからである。記号的であるがゆえに、表情に潜む感情の機微が十分に表現されていないのが理由だ。間接的には、敵である獣人やガンメンが"いかにも"なデザインであることも理由となろう。*6さらにいえば、記号的であるということは「傷つかない体*7」を肯定する方向にはたらく。また、敵たる獣人の死の描写がないこと*8や、細かい点かもしれないが、ブータが自分の尻尾を切り取りシモンとカミナに与えたシーン(特に、流血しなかったことを考慮)などを鑑みると、グレンラガンという作品における身体は「傷つかない体」であるといえよう*9。そして「傷つかない体」といえるようになってはじめて、違和感は個々人の嗜好の域を離れ顕在化した。
前振りが長くなったが、ここで疑問点がでてくる。それはカミナの死のシーンが関係してくるが、第8話においてカミナは傷つき・流血し、そして死んだのである。これによって、カミナの死とグレンラガンで描かれる絵とが整合性を持って迎えられなくなってしまった。脚注にあるように、「当初の時点では『このアニメはそういう風に描く』という前提があるのだと解した」のは天元突破グレンラガンの放送時間を考慮して子供をも対象としているため死の描写を控え、同じ理由からわかりやすさのために記号絵を選択したのではないかと考えたからであった。しかし、カミナの体が傷ついたことによって制作サイドが「あえてそうした」という意図を素直に首肯できなくなってしまった。これがはじめで述べた"疑問点"である。この点をどう捉えるか、というよりどういう解答を持って我々に答えてくれるのか。天元突破グレンラガンは、今放送されているアニメで一番面白いといっても過言ではないのだが(そしてその評価が覆るわけではないのだが)、事ここに至って、別の観点からも最後まで見届けたいと思う。

*1:もっとも、電脳コイルはまだ1話を観ただけであるので考慮にはいれていない。電脳コイル、絵が上手いですね

*2:とはいっても、その時点で違和感を覚えたわけではなくて、後から考えてこの点に違和感があることを認識したわけである。当初の時点では「このアニメはそういう風に描く」という前提があるのだと解した

*3:厳密には表情そのもの以外も含まれるが、表情それ自体を抽出して述べてもかまわない

*4:違和感を感じた回の時点という意味ではなく、この程度の違和感の時点という意味である

*5:ここを言語化するのに梃子摺ったのだった・・・

*6:むろん記号的である絵が悪いとはいうことはないが、表情の機微を求めるのであれば適切な絵とはいえないことは確かだ

*7:この語については以前の日記を参照されたい

*8:誤解してはならないが、放送倫理上死を描けないということと記号絵であるがため死の描写ができないことは次元の違う話である

*9:この点は同じGAINAX作品同士で比較すればわかりやすかろうと思う。すなわち、「エヴァンゲリオン」で描かれる身体は傷つき・流血するそれであった。鈴原トウジにおいては左足を喪失した。対してグレンラガンにはそういうことがない。敵たる獣人においても、である