8月7日・8月9日・9月6日の日記に対していただいたコメントへの返信

まずはじめに、実質1ヶ月以上なんらの更新もできなかったことをお詫び申し上げます。また、思わず時間の取れた今日という日の午後に急遽返信を用意した経緯から、内容に精査行き届いておらぬ可能性のある点も重ねてお詫び申し上げます。
らき☆すたも最終話を見終わったことでもありますし、ここに以前の日記へコメントを下さった方々へ返信いたしたく存じます。



>MIYA様
コメントありがとうございます!
らき☆すたのような作品の需要は確かにあろうかと思います。ただ、需要と作品の肯否が必ずしも一致しないところに歯がゆいものを感じずにはおられません。
パロディについてですが、らき☆すたはパイオニア的な存在ではないと思っております。分かりやすい例でいえば、当サイトで以前述べた「トップをねらえ!」は存在自体がパロディでありました。タイトルからも分かるとおり、「エースをねらえ!」と「トップガン」のパロディです。むろん、これ以外にもパロディとして良作・秀作とされる作品は多々あろうかと思われます。その意味で、あの作品におけるパロディは斬新では決してありませんし、その質自体も低いものであるからこそ否定的な見解を採らせて頂いているということであります。仮に方法論として新しいものでさえあれば、少なくとも「頑張ってるよね。結果は失敗だったけど」という評価は下せるのですが、そういうものでもありません。MIYA様におかれましては、らき☆すた以前にいかなるパロディ作品があったのかお調べになってみるのもよい勉強になろうかと存じます。
ところで、MIYA様のおっしゃる「何も考えずに気楽に見れる」とはすなわち思考停止ということではないのでしょうか。
また、「スケッチブック」につきましては、おそらく鑑賞している時間が確保できない(現在らき☆すたのような作品を是とする作り手のアニメは控えたいという心情が強く働いておりまして、時間に余裕のない近頃ではおそらく観ることはないと思われます)ために必ずしもコメントを寄せるとは確約できない状況にあります。また、実際に観ることなく申し上げるのも憚られて申し訳ないのですが、おそらくMIYA様の期待にこたえられるような内容を述べることはなかろうとも存じます。申し訳ありません。
次に、9月6日分にいただいたコメントに対しての返信でございます。
まず、MIYA様がおっしゃっているように意識的に考えていないとしても、あるいはそうでなくとも、それは結局思考停止以外の何者でもないのではないと存じます。
さて、MIYA様のコメントをみさせていただきますと、わたくしが当初より「面白い」という言葉を文脈によって多義的(あるいは文脈ごとに異なるニュアンスを用いているといったほうが適切やもしれません)に用いてきたことがいまいちご理解いただけていないような印象をうけます。MIYA様のおっしゃる「面白い」という言葉と、わたくしの申し上げる「面白い」という言葉は、そもそもなにを「面白い」とするかが異なっています。MIYA様のおっしゃる心的作用としての「面白い」と感じる心理がどういったものかということを知りたいのであれば、その方面におけるものの本をお調べになるのがよろしかろうと思います(わたくしもそちらの学にはくらく、必ずしも適切な説明はしかねるためでもあります)。対して、わたくしが「面白い」というのは、各表現にどのような意図があるのかとか、それが適切な演出によって表れているかとか(観る側がきちんと読み取れるか)、それらが全体として整合性をもって物語を織り成しているかといった観点が満足されたような場合であります。わたくしが説明であるとか理屈であるとかいう言葉を用いてきたのはまさにそういうことで、そういったものを「面白い」というのならば言葉に引きなおすことは十分可能であろうと存じます。
「面白さ」というものは、確かに究極的には理屈ではございません。感覚的なものであります。しかし、ただ「面白い」というよりも、「○○だから面白かった」といわれたほうが他の人は納得できようと思います。さらに、「○○だから××で、だから面白かった」といえばなおさらでありましょう。例えば、ある美術品がなぜ価値があるかといえば、それは「美術史的にこういう意義がある」だとか、「技巧が秀逸である」といった様に説明できましょう(今は例でありますので、非常に簡略化しておりますが)。それらに個々人が価値を見出すどうかは別として、そういった説明は現になされており実際に通用しているものです。仮に美術商や研究家、解説員などといった者が「なんとなくよい品だと思われます」とか「何も考えないでみるとよい作品です」とか「空気がいい品物です」といった場合にはいかがでありましょう。絵画や文学や音楽でも何でもよいと思いますが、そのような作品解説がされているものは凡そ存在しなかろうと存じます。1枚の絵画をぼーっと眺めて綺麗だなと感じるような楽しみ方を否定する気はありませんが、少なくともそれでは作品解釈にはなりえません。時代背景、なぜその絵が描かれたのか、どのような技法が用いられているのか。そういったことを考える営みもまた必要だろうと思う次第でございます。そして、アニメに対してもそういうスタンスで向き合おうというのがわたくしの申し上げていることなのであります。
なお、「バナナの皮で滑って転ぶ」の話がなぜ面白いかについてですが、これにも説明は可能であると思います。基本的にギャグというものはギャップを感じることに面白さを見出すものです。人は思い込む生き物です。歩くあるいは走っている姿をみるとその動作が続くものと思い込みます(人が歩く映像やアニメーションが流れていたら、何か新しい映像が与えられるまではそれが続くものと思うわけです)。そこへバナナの皮が登場し、本来だったら歩き続けるはずの人間が滑って転んでしまう。そのギャップに人は意表をつかれ面白さを感じるのであると思います。後はバリエーションにより、嗜虐心であるとかいたずら心といったものが加わったりすることもあろうかと存じます。この説明は細部を簡略いたしましたが、MIYA様におかれましては、もしさらなる疑問がございますればご自分でお考えになるともよかろうと思います。


>mawo様
情報ありがとうございます!
以前どこかで見かけて以来、タイトルに興味を覚えましていずれ読みたいとは思っていたのですが、どうにも機会と執念が及びませんで、お恥ずかしながら探してすらいない状況でありました。これを機会に読んでみようと思います。ありがとうございました。


>nonno様
コメントありがとうございます!
nonno様のおっしゃる通り、そういった意味では同情されるべき作品やもしれません。アニメの制作環境というものは、昔から商業的に成功する要素を取り入れながら如何によい作品を作るかという制約のなかにありますので、彼らにはその制約を跳ね除けるだけの作品作りを期待したいところです。ただ、仮に彼らがこのような作り方を面白いと思っているのだとしたら、そこに同情の余地はなくなってしまうかと思います。わたくしとしても、そうでないことを切に祈るばかりであります。
とはいえ、現在よりアニメ技術的に劣り、しかもらき☆すたより実質予算も少ないであろう機動戦士ガンダムが(放送時はともかく)いまだあれほどの人気を保っていることを考えると、もう少し他のやり方があったのではないかと思わずにはいられません。
サザエさん」につきましては、わたくしが最後に観たのは数ヶ月前でしたが、そのときは"何か"とはいわず、それなりの理由をもって面白いといえる作品でございました。


>nag様
コメントありがとうございます!"King"のお話、興味深く拝見させていただきました。
まず、「天皇陛下」や「エリザベス女王」は、言ってみれば「(自分にとっての)その王」あるいは「(自分にとっての)このKing」というような場合の話であって「王(あるいはKing)」という言葉それ自体とは次元の異なる話であります。「萌え」という言葉に置換すると、「(自分にとっての)その萌え」ということになろうかと思います。では、「王(あるいはKing)」といった言葉自体の意味は何かというと、辞書等にきちんと意味が記載されていると思われますのでそちらをご覧いただきたく存じます。それに対して、「萌え」自体の意味はなにかという柊つかさの質問に対して、泉こなたは「好きってことの感情表現には違いないけんだど、わたしも詳しくはわかんないなー」ないし「とりあえずこの単語を自然に捉えている」と返答しておりましたが、こういう言い方では「萌え」という単語の意味はないといっているようなものではないでしょうか。もっとも、「萌え」という言葉の是非は当サイトの内容に直結はしないのであまり深く追求する必要はなかろうと思います。
日常についてですが、一方で現代の高校生は3年間通っても精神的に成長がないと一般的にいっているにもかかわらず、他方で人間関係や個人の趣味によって千差万別であるというのは矛盾であるように思われます。また、日常という概念をそのように広域的(広義的という意味に解させていただきます)に理解してしまうと、それこそわざわざ日常という言葉を用いた意味がなくなってしまうように思われます。つまり、「その世界(空間的な意味と時間的な意味を包含)で」「その人たち」にとって「描かれている内容」が「日常」という言い方をしてしまっては、汎そなんでも該当してしまうことになり、実質的な意味を没却し何も言っていないのと同じなのではないかと思われます。日常という言葉についてなぜいけないのかは、以前の日記やコメントでも言及させていただいておりますので、さらなる疑問がございますれば、詳細についてはそちらをご覧くださすようお願い申し上げます。


>さめかけ様
コメントありがとうございます!
要するに、あれらの演出は「確かに何か違うことをやっているしやろうとしたのかもしれないんだけど、それはやっても無駄あるいは失敗だよね」ということであります。制作サイドがいかなる意図でやったのかは、それが明言されていない以上(作品における他の演出等から読み取れない・作品外で言葉にされていないなど)、わたくしたちの側からしてみればわかりかねる話でありますので、「仮想的な身体性をもたせることも難しい萌えアニメに対する批評性を持たせよう」という意図を読み取るにしろ、「なんにもわかってないからあんな演出するんだ」などと読み取るにしろ、それらは単に推測にすぎず結局善意解釈あるいは悪意解釈でしかないと思います(もっとも、結果を示せていない以上、理解しないでやってしまったという誹りを免れ得ないといえばその通りかもしれません)。そして、外形的なものをみる限り、こと「身体性」というものに対しては、彼らの方法論は矛盾する結果を生み出しており、失敗だったということでございます。さらにいえば、他の萌えアニメはそういったことを理解していて京アニのような方法論をとらずにいたのかもしれませんし、逆に京アニはそこの理解が不十分だったのかもしれないともいいうるわけでございます。
共通言語のお話についてですが、さめかけ様がおっしゃるのは、オタクと非オタクそれぞれの認識・価値判断があるにもかかわらず、オタクの側のそれを非オタク側の基準にあわせろというのはおかしいという主張でよろしいのでありましょうか。まず、「共通」言語なので、オタクであるとか非オタクであるとかいう単語を持ち出す言い方をする時点でいかがなものかと思わざるを得ません。すなわち、「今まさにコメントにおいてさめかけ様がわたくしを説得しようとするのに用いている言葉(方法といってもいいかもしれません)」でアニメを語っていただければよい、ということです。そして、その言葉(方法)はオタクであろうと非オタクであろうとすでに「もっている」ものであるにもかかわらず、なぜかアニメを語るときにはそれが「用いられない」ので、もうちょっとよく考えてみてよ、というということでございます。仮にオタク独自の認識があるんだということを肯定したとしても、認識とは、見えている、触れている、わかる、といったものであって決して思考ではございません。そして、認識のままでは、オタクでない人間はもとより、同じオタクですら共通のものを抱いているとは必ずしもいえないと存じます(個々人が別個の存在たる人間である以上、同じ認識を共有しているかは確認のしようがないからです)。であれば、結局言葉に表してみなければなにもわからないということであり、そういったことを否定し、認識の段階でとどまることを肯定する以上、「思考停止」といわれても致し方ないのではないかと思われます。オタク独自の認識があるのなら、そしてそれを「思考」していたというのならそれは言葉に出来るはずで、であればその言葉にできる思考を声に出してみてよ、ということです。


>ジラ様
コメントありがとうございます!
ジラ様がおっしゃっているのは、結局「共感できる人だけ共感してね」ということであろうかと存じます。それは、結果として共感を得られなかったこととはそもそもの次元が異なり、ただの制作者側の怠慢にすぎないと思います。例えば、ジラ様から寄せていただいたコメントは、「わたくしという反対の意見を持つ人間を説得するために書いたもの」であります。これが、ジラ様と同一の考えを持つ方に対して寄せる場合であれば、それはただの確認行為であって余りたいした意味を持ちません。相手が既に分かっていることをもう一度言ったからといって新しく得るものはないからであります。何が一番重要かといえば、共感していない人をいかに引き込むか、換言すれば、自分の言説に説得力を持たせどうやって相手を納得させるかであります。そういう営みを否定し、共感してくれる人だけを前提とした作品作りをするというのは、説得的に表現することの放棄すなわち表現の敗北ではなかろうかと存じます。また、受け手の側もそれでよいとしてしまうのは同様に怠慢に過ぎないものと思われます。
さて、お祭りの例えですが、おおむねジラ様のおっしゃっている通りでよいと存じます。思いますに、「思考停止」といわれて「いや、この作品にはこういった考え方があるんだよ」としっかり立論できればよし、あるいはそういった楽しみ方は駄目なんだと改めるのもよし。しかしながら、具体的な中身に言及しないまま「空気だけを楽しんでいる」としながら、いざ「思考停止」といわれると憤るというのはいささか都合が良すぎるといわざるを得ません。
最後に、レスの方式についてのご返信でございます。当初はジラ様のおっしゃるような形で返信させていただこうと思っておりましたが、個別的に返信した方がコメントを寄せていただいた方の疑問に思っている点にダイレクトに返信できることをより重視しようと考えさせていただきました。結果、返信に時間がかかるという時間的な問題にはまことに申し訳なく存じておりますが、総括的な返信による同旨の再コメントがよせられるといった場合もありえることを考えますと、必ずしも時間の節約になるとも言い難かろうということで、なにとぞご甘受いただきたく存じ上げます。


>いばら様
コメントありがとうございます!
客観的説明という部分につきまして、いばら様のご理解をいただけるよう特に分かりやすい形で説明するよう心がけたいと思います。いくら理屈理屈と唱えても、終局的には感覚的なものに寄りかかっていることは否定しませんし、むしろ肯定するところですが、それは最初から感覚的部分でしか語らないということとは決定的に異なります。簡単にいってしまえば、MIYA様に対する返信で述べたように、「らき☆すた面白かった」といわれるよりも、「○○だかららき☆すた面白かった」といわれたほうが分かりやすいということです。さらにいうなれば、「○○だから××で、だかららき☆すたは面白かった」といえばさらに分かりやすくなります。自分の感覚的な部分での納得が得られるか得られないかはともかくとして、そういう言い分もあるんだということが理解できようかと存じます。車の改造の例をとってみても、客観的な説明をつけることはできますし、それが返ってこないということはいえないでありましょう(「○○だから車の改造がすき」と自分の好きな理由を説明する人は、いばら様の思っておられるよりも存外多かろうと思います)。心理学という学問分野があろうかと思いますが、これはまさに人間の心理状態に説明を加えようとする試みではないのでしょうか。ギャグアニメについても、「なぜ人はこれをギャグとして面白いと思うのか」ということには説明をつけることが可能であると思います。あずまんが大王はギャグアニメでしたが、あれは面白かったですし,その面白さも十分説明できるものでありました。そうであれば、説明が出来ないアニメがあるとしてしまっている時点で、そこは思考停止であるといってしまってよいのではなかろうかと思います。疑問なのは、感動というのも人間の心理であるのになぜ感動系のアニメには理論が成り立つとされ、他方らき☆すたには理論が成り立たないということになっておられるのでしょうか。この点、らき☆すたが破綻しているアニメだからという意味合いであれば、確かにわたくしも首肯いたすところです。したがって、そもそもアニメを理屈で語るという次元では、アニメをそのような2種類に分類することには疑問が生じます。返信中でも引用いたしましたが、できうるのであれば、MIYA様への返信もあわせてご覧ください。また、繰り返しになりますが、理屈と感覚の話はわたくしが本来意図しているところはそこまで厳密な"理論"というものではないので、ある程度感覚的な部分に依って立つ必要があることも上述したとおりご留意いただきたく存じます。
最後の点についてですが、わたくしも見ている人がどうであろうが、その作品の良し悪しとは関係ないはずであると思うのですが、そうであれば、仮に私がらき☆すたの信者は馬鹿だという偏見を有していたとしても、前回の文章内容がそれに左右されることはないと存じますがいかがでありましょうか。
また、蛇足かと存じましたが、必ずしも返信内容と無関係ではないとも思われるので、相対論の例えについて一点述べさせていただきたいと存じます。相対論は、「実験結果と矛盾しない体系を論理法則に則って説明する」という共通のルールに則って発表されたものであります。それが当時理解されたか否かは、理論自体の成否とはまったく関係のないものでありましょう。わたくしが申し上げているのは、そもそもその共通ルールで語ろうよという次元での話であるのではないかと考えました。


>河童様
コメントありがとうございます!
河童様の言葉を借用させていただくと、おっしゃるとおり「自由度の高い」ということかもしれません。ただ、残念なことに自由度が高いことでなにを生み出すことが出来たかといえば、結局何も生み出せていないと感じております。らき☆すたはアニメ業界の縮小再生産を示す象徴的なものであるように思われます。ある意味で究極的、悪い言葉で言えば末期的な作品で、この作品が世に示したことは「現在においてはこのような作品でも商売になるんだ」ということが一番ではなかったかと考える次第でございます。


>いちげん様
コメントありがとうございます!
おっしゃる通り、ただの一視聴者であればわたくしもあまり批判する気はございません。ただ、わたくしはアニメに興味をもっていて、かつほんの少しですが一定の本数を観ている人間であります。そういったある程度アニメーションに触れ合う機会のある者が、そうでない者と同程度のことしか語れないのはいかがなものかと思うわけです。しかも、たとえ一定量アニメーションに触れる機会がある人間に対しても、「どう面白いか語れ」とまで強い主張をするつもりもございません(わたくしが勝手に、ある程度アニメを観ているのにろくに観ていない余人と同程度のことしか言えないというのは自分の知能を疑ってしまうという感覚に個人的にとらわれているにすぎないためでございます)。しかし、そうであるのに、「君たちろくに語れないんだね」といわれた際に、その部分を否定しにかかるのはいかがなものかとは思います。
また、わたくしはらき☆すたがオタクの全肯定を描いているものとは理解しかねます。というより、あの作品がなにを描いているのかすらわかりかねます。わたくしにとっては、そういった破綻した作品を肯定することが「気持ち悪い」のではないかと思います。
また、いちげん様の言葉を借用させていただけば、むきになって肯定するほど論じるに値する部分があるとも思えない、ともいえそうですが、わたくしとしては、決して少なくもない労力と時間と予算をかけて作成されたアニメーションが、無いものは語れないといえる程度のものでしかなかったことは十分に批判に値すると思うのですがいかがでありましょうか。