らき☆すた第16話「リング」について

作品を批評しようとすると、どうしても人間に対して非難が向いてしまう現状がなんとも悩ましい。
一 らき☆すた第16話「リング」はおそらくこれまで最もひどいものであった。天元突破グレンラガンはこれまでの負債を返しきれないまま新たな展開に突入してしまった。さよなら絶望先生は瑣末な演出にこだわって肝心の本編中がお粗末、といった具合で本当にうんざりしているというのが本音ではある。いい作品はいいときちんと説明できない人たち、あるいは悪いものは悪いときちんと説明できない人たちが観ることを前提に作られたanimationのなんと多いことだろう*1
二 らき☆すた第16話「リング」について。
1週間、いや、2週間近く遅れてのアップになるので申し訳ないのだが、今回は「リング」についてである。この作品に出てくるパロディはすっかり涼宮ハルヒの憂鬱ケロロ軍曹コンプティークアニメ店長に固定してきた。無論これ以外のものもあるが、基本的にはこれらがパロディの主軸となっている。なんともわかりやすい資本主義構造であると思う。これ以外のパロディについては、例えばスペシャルサンクスに「サーカス」などとクレジットを入れて用いることで、作品同士が相互補完しあっているという構造も見て取れる。いまさら「D.C.〜ダ・カーポ〜」がネタとしてでてきて視聴者が喜ぶということも少々戸惑いを覚えるが*2、それ以上に他作品に頼らなければ視聴者を喜ばせることも出来ない力量のなさに辟易するばかりである*3。今回の話を面白いとする人々は、下手をすると一生制作サイドの思惑通りに踊らされ搾取され続けてゆくのだろうか。こんなanimationいりません!と声高に主張できず、むしろ与えられるものを肯定する前提でみることはどうなんだろう*4(もっとも、この点もたぶんに感情論ではあるが)。このエピソードのおかげでまた新しいCD販売にこぎけられるし、コンプティークの宣伝にもなるし、アニメイトも嬉しいし、といった具合で商業的には確かに感心しきりだ。それもこれも手のひらの上で踊ってくれるお客様のおかげである。
さて、らき☆すた肯定論にはいくつか類型がある。それは、1.らき☆すたはいわゆる「祭り」であることに肯定の根拠を見出すもの、2.らき☆すたは(例えば)ニコニコ動画といった媒体の存在を前提としており、そこに訴えかけていることに肯定の根拠を見出すもの、3.らき☆すたは現状を皮肉っているところによさがあるとするもの、である*5
1について考えてみると、以前にも述べたように、観てくれる前提の人間に対してしか門戸の開かれていないanimationというのは否定されるべきである。少なくとも、「祭り」に参加することが前提となっている人間の評価を作品の評価に含めるのはおかしい*6。参加しない人間をいかに説得できるかということが作品の評価であるからである*7
次に、2について考えてみる。これによれば、確かに断絶しているらき☆すたの各ネタを整合性があるかのように説明できそうではある。ところが、まず根本的な疑問として、なぜニコニコ動画の媒体があることがらき☆すたの肯定につながるのか不明である。この点についていわれているのは、らき☆すたはMAD等の素材としてのよさがあり、またそれを発信することが容易かつあらかじめ予定されている現状があることを根拠にして、作品自体をも肯定できるというものである*8。しかし、必ずしも作品と一体でないMAD等を作品を肯定する上で根拠として当然に組み込むことが妥当であるとは思われない。MADというのは、そもそもMADを作ろうとする人間が恣意的に素材を組み立てるものではなかったか。MADを作ろうとする人間が"使えそうだ"と感じたもの*9を使って面白さを演出するのであって、その作品がMAD用の素材を提供しているかどうかはまったく関係ない。作品自体の肯否を論じるときに、それとは別の場所から要素をもってきて根拠とすることは不自然である。というのは、例えば、らき☆すたが用いられたMAD作品場合には、MAD自体がよいからこそ用いた素材が良い*10ということになるのであって、らき☆すたがよいからMADがよいのだとはなるまい。敷衍してみれば、タイアップ作品は、animationがよいからといって原作も面白いといわなければならなくなり、これは不当だからである。
最後に、3についてであるが、これは単純な誤読である。なぜなら、皮肉と解釈しようとしても、作中にはそういった描写がないためである。そうである以上、皮肉ととるのは解釈としてはおかしい*11。むしろ皮肉とは反対に、ああいったあり方を肯定しているとみるのが自然である。皮肉というからには、だめな部分を肯定する描写*12と、それを否定する描写*13がなくてはならないが、この作品では後者がないので、単純な肯定ととるのが正しいのではなかろうか。というか、皮肉だとしたら、もってけ!セーラーふくのCDがあんなに売れるものだろうか?ましてや"一般人"も購入したといわれるのであればなおさらである。
ところで柊かがみについての一
柊かがみコンプティークをなんの抵抗もなく手に取ったし、「コンプ」と呼称しているし、もはや完全に一般人という虚偽は通用しなくなってしまったといえよう。第一、一般人の女子高生がメイド喫茶(?)にいったりするのであろうか*14。女子高校生の何%がかがみと同じ体験をしているかデータがほしいところである*15
柊かがみについての二
(比較論として)時をかける少女の主人公・紺野真琴に現実味がないという感想がしばしば見受けられるが、そう主張する人々二対してはb、らき☆すた柊かがみ(たち)にこそ、とりわけ恋愛ということに関しては現実味がないのではなかろうかと問いたい。かがみやこなた達には(設定上)絶対に彼氏はできないと思うのだがいかがであろう*16

*1:以上はただの感情論もとい愚痴であるので無視していただいた方が幸いである。そして、わたくし自身も必ずしもきちんと説明できているとは思っていない。ここをご覧になってくださる方々に対しては、力量のなさを申し訳なく思うほかない

*2:それに「D.C.〜ダ・カーポ〜」自体もそこまで浸透しているものなのか甚だ疑問だ。パロディをするときに、これはパロディだと前面に押し出す形で持ち出しているにもかかわらず肝心のパロディのネタが必ずしも視聴者にとって認知されていない場合はどうなのだろう。検討を要するように思える。普通に見ている人にとってはそれがパロディであるとわからせない使い方でパロディをする場合にはその度合いに応じて元ネタがマイナーになってもよいように思えるためである。パロディに用いるネタと用いられ方は相対的に解釈した方が適切だと直感的には思えるので、この点、いま少し根拠の裏づけを考えてみようと思う

*3:この点に関連して、京都アニメーションあるいは山本寛監督に関しての云々はまたいずれしようと思っている

*4:animationが本当に好きなのであれば、程度の低い作品は「こんなものをanimationと呼ぶな!」と否定すべきではないだろうか

*5:他にもあるとは思うがさしあたりこの3つについて考察する

*6:肯定することが前提の人間のなす評価は評価になっていない

*7:何度でも繰り返すが、面白いと思っている人間に対して面白いと言えば共感を呼ぶし、反対に面白いと思えない人間に面白いと言ってもなしのつぶてである。だからこそ、「なぜ、どういう理屈で」を示して説得的に作品の肯否を論じることが必要となるのである

*8:とはいえ、この論によったものが全てこれを根拠にしているかどうかはわからない

*9:多くはanimationの映像、音楽・音声、静止画など

*10:ここでは、素材をうまく用いているの意

*11:自分が勝手にそう読み取りたいのは否定しないが、あくまでそれは自分の内心に限った話のことであって、一般的にそう読み取れるものではない。なぜなら根拠がないからである

*12:これがなければ単純に否定である

*13:これがなくては単純に肯定である

*14:以前にも述べたように、コミケに2回もいっているという事情もある

*15:その場合には、きっと日常という虚偽も通用しなくなるであろう

*16:こなたがよくかがみをからかっているが、あれはむしろこの点を肯定しているもののように思われる。なぜなら、それ以上の話がまったく出てこないためである